『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』というアニメをご存知でしょうか?
少なくともアニメ好きなら、必ず一度は視聴しているだろう大人気作品です。秩父を舞台にした今作の人気により、聖地巡礼ブームが全国に広がりました。
私もこの作品の大ファンで、Blu-rayは買いましたし、もちろん『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も観に行きました。
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 Blu-ray BOX(通常版)
- 出版社/メーカー: アニプレックス
- 発売日: 2013/08/21
- メディア: Blu-ray
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鑑賞した当時はまだ高校生でしたから、まさしく超平和バスターズと同じ年ごろだったこともあり、共感する部分が多すぎて涙が止まらなかったのを記憶しています。
どうしてあんなに感動したのでしょうか?
小説や脚本を書いている身としては、無粋ながら、感動した理由が気になって仕方がないのです。そこで、まず思い浮かんだのが「田舎を舞台にしているから?」という理由です。
『君の名は。』しかり、『サマーウォーズ』しかり……。ヒットするアニメ作品に共通するポイントの1つは「田舎」という舞台設定です。これ、小説の新人賞でもよく言われる話ですが、作品を鑑賞するお客さんの多くは都会人。
都会人は当然ながら都会の風景を見慣れています。そのため、自然豊かな田舎を舞台に設定すれば、それだけである種の非日常性を演出することができるのです。都会人にとって田舎は1つのファンタジー世界ですからね。新人賞でも、あえて田舎を舞台に設定し、目新しさを出す方法をとる人は少なからずいます。
『あの花』はまさに、田舎を舞台にした作品であり、都会人の目を癒してくれたのは間違いないでしょう。しかし、どうにもこの理由は核心から遠い感じがします。
ほかにも「Galileo Galileiの『青い栞』が名曲だったから?」、「とにかくメンマが可愛かったから?」、「ノスタルジーを刺激されたから?」など、感動した理由をあげてみましたが、どうにもしっくりこない。
そこで、アニメをもう一度観直してみたところ、物語の終盤、超平和バスターズのみんなが、神社で泣きながら懺悔するシーンがあったと思うのですが、あのシーンを観て、「そうか、罪悪感について描いていたからか」ということに気づきました。
超平和バスターズは、メンマの死を境にして、バラバラになってしまいました。それが、メンマの復活によって再結集します。すると、みんな忘れかけていたメンマへの気持ちを思い出してしまう。ユキアツはちょっとイレギュラーですけど。
このとき、みんなが、どんな気持ちを思い出したのかと言えば、それが「罪悪感」です。みんな「メンマに対して悪いことをしてしまった……」という胸のなかに痛みを伴うしこりを抱えていたのです。
あの懺悔するシーンは、罪悪感の吐露に他なりません。自分一人で抱え込んでいた「悪いことをしてしまった」という想いを、みんなの前で一気に吐き出す。この懺悔によって、みんなの罪悪感が浄化されていきました。
もしかすると、メンマはみんなの中に残っていた「罪悪感」というしこりを取るために現れたのかもしれません。もちろん、みんなに仲良くなって欲しいという理由もありますけどね。そして、みんなと気持ちを共有することで、罪悪感から解放されることも同時教えてくれているような気がします。
私自身、ちょっとしたミスに対して大きな罪悪感を覚えてしまうタイプの人間です。自責の念に囚われて周りが見えなくなり「私はダメな人間だ」と思ってしまうことがあります。罪悪感は現代人が苦しめられている感情の1つなのかもしれません。
誰でも1つは心当たりがあるはずです。思い出すたびに、胸がチクリと痛む。あるいは、「全部自分のせいだ」と言って自分の殻に閉じこもったり、終いには「私なんか死ねばいい」なんてSNSでつぶやいたり、罪悪感がきっかけで苦しんでいる人は大勢います。
誰もが抱えている「罪悪感」という根本的な悩みを射抜いたからこそ、『あの花』は多くの人を感動させたのでしょう。
『あの花』の脚本は、岡田麿里先生が担当していますが、おそらく岡田先生は「罪悪感」を意図的に使っている印象があります。
例えば、『あの花』のあとに制作された『心が叫びたがってるんだ。』通称『ここさけ』でも、「罪悪感」が物語の大きな柱となっていました。
ヒロインの成瀬順は、自分の発言がきっかけで両親が離婚してしまったため、口を閉ざすようになりました。これはまさしく罪悪感が生んだ行動ですよね。「自分がお喋りなせいで」という気持ちが、彼女の口を閉ざしてしまったのです。
この映画はそんな罪悪感で喋れなくなった順が、苦しみながらも自分の気持ちを声に出すことで、罪悪感から解放されるお話です。
「罪悪感からの解放」これが感動を作るポイントであり、岡田麿里先生の技なのかもしれませんね。
もちろん、岡田麿里先生以外の作品でも、例えば『聲の形』では「罪悪感」とどう向き合うかに焦点が当てられていました。
主人公の石田将也は、ヒロインの西宮硝子を小学生のときに虐めていました。自分の行為の罪深さに気づいてから、石田は罪悪感に苛まれ、どうやって死ぬかを考えて生きていました。
これが最後には「君に生きるのを手伝ってほしい」という考えに変化します。「死」から「生」に思考がシフトしたのです。「罪悪感から解放」されたことによって、石田の思考は変化したものと考えられます。
罪悪感は人の心を縛り動けなくさせてしまうものです。あるいは、罪悪感を忘れるために、友達と遊びほうけたり、勉強でごまかしたり、いろいろな代償行為で心の傷をなかったことにしようとします。これらの法則を物語のプロットに組み込むと、人の心を動かす話ができるかもしれません。
「罪悪感の発生→代償行為→罪悪感を思い出すきっかけ→罪悪感からの解放」、この順番でお話を展開すれば、ある種の感動を呼び起こすことも可能なはずです。
もし皆さんが、創作をされているのなら、一度、この「罪悪感プロット」を使ってみてください。人の心を動かす作品が出来上がるかもしれませんよ。
それでは、今日の世迷言はこのくらいにしておきましょう。
次回の世迷言まで、さようなら~~(^^)/
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