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映画『来る』の考察・レビュー!あらすじ&ネタバレ&キャスト紹介!社会派×ホラー×エンタメの衝撃作登場!

またもや、現代人を覚醒させる映画に出会ってしまった。

 

本当に今年は、時代性をしっかり掴んだ素晴らしい邦画が多いですねぇ。。

『来る』は、社会派ホラーと表現してもよい気がします。あまりにも、えげつなく、あまりにも過激に、現実をえぐり出す。幻想を通すことで露呈する現実幽霊の怖さから垣間見える人間の怖さ。単なるホラーを超えた、非常に鋭いメッセージ性を持つ作品だと感じました!

 

今回は公開初日に行けなかったのですが、去る12月8日に劇場へ『来る』を観に行きました。ビックリしたのは、土曜の昼間だというのに、『来る』の劇場には5人くらいしかお客さんがいなかったこと。なんでやねん……。

 

岡田准一妻夫木聡黒木華小松菜奈松たか子。日本映画界を代表する素晴らしいメンツがそろっているのに、いまひとつ話題になっていない。映画サイトとか見ても、あまり評価が高くない。うーん。私はかなり推しの1作なんですけどねぇ。

 

ま、原作から大きく改変されているようなので、原作が好きな方は、避けたほうがいいのかもしれませんね。

 

とはいえ、今回の原作『ぎわんが、来る』で「第22回日本ホラー小説大賞」を受賞された、原作者の澤村伊智先生も「小説と映画は別ものなので、どう変えていただいてもかまいません」と語っていますし、その改変された映画自体を「面白い」と言ってるわけですからねぇ。できれば多くの人に『来る』を楽しんでほしいですねぇ。

 

このブログでは、『来る』の何がどうよいのか、できる限り具体的にお話しようと思います。近年稀にみる「魂で作られた作品」なので、その魂の一部をここでご紹介できればと考えています!

 

毛虫ってなんなの?」とか、

オムライスのシーンってなんなの?」とか、

この作品には謎な描写が複数ありますので、その辺りの私なりの考察もお伝えできればと思います。

単なるホラーと侮るなかれ!

ここに描かれているのは、まさしく人間ドラマであり、現代人の抱える問題でもある

ということで、まずは予告を観て、劇場へ行ってください。

 

今回は前半部分はネタバレなし(※若干あるかも)、後半部分からネタバレありで話を進めていきますので、映画を観ていただいてから、このブログをお楽しみくだされ~~

映画『来る』のあらすじを紹介!

映画『来る』の画像
(C)2018「来る」製作委員会

冒頭からエキセントリックな音楽で始まる『来る』。奇妙なCGアートと、キャストの名前と、映画のタイトルが入り乱れる、混然一体となったオープニング。東洋的な世界観と西洋的な世界観がマッシュアップしたような、不可思議な出だしによって観客は催眠術をかけられたかのように、頭がフラフラしてくる。

 

これは音楽も一緒に楽しめるホラーなんだなぁ、ということが最初の時点で伝わってきます。クライマックスシーンでは、お祓いミュージカルも楽しめますから、ぜひ観て欲しい!

 

さて、ではそんな冒頭から始まる『来る』は一体どんなストーリーなのか、あらすじから簡単に見ていきましょう。

 恋人の香奈との結婚式を終え、幸せな新婚生活を送る田原秀樹の会社に謎の来訪者が現れ、取り次いだ後輩に「知紗さんの件で」との伝言を残していく。知紗とは妊娠した香奈が名づけたばかりの娘の名前で、来訪者がその名を知っていたことに、秀樹は戦慄を覚える。そして来訪者が誰かわからぬまま、取り次いだ後輩が謎の死を遂げる。それから2年、秀樹の周囲で不可解な出来事が次々と起こり、不安になった秀樹は知人から強い霊感を持つ真琴を紹介してもらう。得体の知れぬ強大な力を感じた真琴は、迫り来る謎の存在にカタをつけるため、国内一の霊媒師で真琴の姉・琴子をはじめ、全国から猛者たちを次々と召集するが……。

(出典:来る : 作品情報 - 映画.com

 基本的には、田原秀樹(妻夫木聡)と田原香奈(黒木華の家庭を中心に描かれる話です。この2人に襲い掛かる「あれ」と呼ばれる怪異と闘うために、野崎和浩(岡田准一)や比嘉真琴(小松菜奈)、比嘉琴子(松たか子が登場します。

 

数々の霊媒師が「あれ」と闘うが、次々と「あれ」に敗北し殺されていく――。いったい誰が生き残るのか、そして、なぜ「あれ」は田原家に現れたのか、大きな謎と人の欲望が渦巻く怪奇群像劇

 

個人的に面白かった点としては、基本的にはホラーなのですが、霊媒師が怪異とバトルする「バトルもの」の要素もあったところ。どうしても、人間ドラマの凄さに注目しがちですが、エンターテインメントとしてのバトル描写も見ごたえのあるものでした。

 

真琴が「来るな!」と言いながら、怪異に手をかざしたり、襲い掛かる怪異から逃げたり、琴子の荘厳なお祓いだったり、野崎の精神世界での闘いだったり。「あれ」との攻防戦を臨場感のある演出で盛り上げていました。

 

敵がどんどんパワーをつけていくところなど、バトル漫画的な面白さがあり、最後まで目が離せない。社会派×ホラー×エンターテインメントの作品として、楽しむことができました!

映画『来る』のキャスト&作品の基本情報!

来る

来る

 

『来る』のキャスティングは本当にドンピシャって感じですね!「キャストの予定を押さえてから作品を決める」のではなく、「作品ありきでキャストを押さえている」ので、ミスキャストみたいなものが一切ありません。

 

大ヒットを記録した『告白』や『渇き。』でメガホンをとった中島哲也監督の完璧主義的な性格を反映したような、まさに完璧なキャスティングだと思います。

 簡単に、『来る』の基本情報やキャストについて以下にまとめておきます。

映画『来る』の基本情報

この役者のこの演技がすごい!① 妻夫木聡の作る空虚な笑顔

妻夫木聡が演じる田原秀樹は、月島製菓の営業部に所属する会社員。婚約者の香奈と、早々に結婚し、子供も授かり、順風満帆な生活を送っていた。イクメンぶりをアピールするために、ブログを始め、多くの読者がつき、パパ友にも同僚にも尊敬される存在に。

 

このように、過剰なまでに幸せをアピールする存在として、描かれているのが秀樹です。

 

幸せをアピールするということは、幸せを実感できていない証拠。本当に幸せなら、そんな演出やアピールは必要ないんです。けれど、秀樹はそのことに気づかず、他者からの承認によって幸福を得ようとしてる。まさに中身のない幸福。まさに中身のない人間。いやぁ、ブログ書くのが辛くなってきた……(笑)

 

この空っぽな人間を、妻夫木聡は見事に演じ切っていました。そんなに面白くもないのに、過剰にいつでもヘラヘラ笑っている空虚さ。その秀樹の中身のない笑顔が、すごかった。本当に感情の籠っていない笑いに見えたのです。

 

また、感情が乏しく人を思いやれない人間だということは、日常の態度にも表れています。

 

祖父の13回忌で、秀樹は香奈を実家に招待する。親戚一同が集まり、懇談している中、誰も知り合いのいない中に放り込まれた香奈は、困惑してしまう。にもかかわらず、夫の秀樹は楽しそうにヘラヘラしていて、「いかないで」と言う香奈を置いて、席を立ってしまう。

 

この時点で、すでに秀樹が相手の心中を察することのできない人間であることがうかがえます。さらに、マンションに入居して、パーティを開いたときも、何気ない遊びではありますが、友人を窓の外に締め出して笑いをとるシーンがあります。友人が困ってる姿を見ながら、秀樹はヘラヘラ笑っています。

 

一見「いい人」に見えて、実は性格が歪んでいる点を、妻夫木聡は完璧に演じていました!あの空っぽさは、私たち現代人を反映しているので、ぜひ見ていただきたい。

 

ほかにも、魅力的なキャストの魅力的なシーンは無数にあるのですが、ネタバレになってしまうので、あとは劇場で確認していただきたい!

この役者のこの演技がすごい!② 黒木華の二面性たっぷりな笑顔(※ここからネタバレあり

では、ここからはネタバレありで、どんどんテキトーに語っていきまーす。

映画『来る』の黒木華は、本当に恐かった。人間の裏表、二面性を見事に表現していたと思います。表情と行動が乖離していて、とても怖かった。

 

この映画は、前半、秀樹の視点で話が進みます。これが中盤~クライマックス手前になると、香奈の視点に切り替わります。この主役交代による、真実の描き分けが見事だった。

 

秀樹は自分が素晴らしい父親だと錯覚していたが、香奈の視点から見れば、育児を手伝わないくせにイクメンを気取る嫌な旦那でしかなかった。

 

お守りのシーンとか、かなり恐かったですよね。香奈がお守りをハサミで割いていたわけですからね。これは驚きました。香奈は「あれ」と同じことをする恐ろしい存在になってしまったのです。人間が闇に堕ちていく、そういう意味での恐さもありました。

 

そして、香奈と言えば、笑顔の恐さです。私が戦慄したのは、秀樹が死んだあと、野崎が田原家を訪れるシーンです。ひとしきり会話した後、野崎は帰り際に、お清めの塩を玄関に置きます。そして「確かにダメな旦那だったかもしれませんが、俺には家族を守るために必死にがんばる父親に見えた」みたいなことを、野崎は香奈に言います。

 

香奈は何も答えず、ただニコニコしながら、野崎を見送る。その満面の笑みを浮かべたまま、野崎の置いていったお清めの塩が入った皿をバリバリと、ゆっくり踏みつぶす。表情と行動が乖離していることもあって、このシーンはもの凄く恐ろしく見えました。ゆっくりと踏みつぶす辺りにも、彼女の持っているドロドロした感情が滲み出ていて、震えましたよ。

 

こんなに妖艶なおどろおどろしさは、なかなか出せないと思います。黒木華の演技力に度肝を抜かれてしまった次第です。すごい、すごすぎる……。。

 

話は逸れますが、笑顔と言えば、今作で田原家の娘を演じた志田愛珠ちゃんの笑顔も、純粋すぎるがゆえの恐ろしさを持っていました。目の前で起こっていることは残酷なのに、大人なら顔を歪ませてしまう状況なのに、満面の笑みを浮かべる。大人とは違う常識で生きている子どもの恐ろしさがバッチリ表現されていたように思います!

「鏡」は人の光も闇も容赦なく映し出す!

今作では「」がたくさん出てきます。そして「あれ」は鏡を嫌がります。なぜかといえば、自分の姿が映ることに怯えているからではないでしょうか。つまり、自分の姿を見る恐怖というものが『来る』には描かれているような気がするのです。

 

秀樹もそうですが、香奈や野崎も自分の闇を見ることに怯えていますよね。 

秀樹は空っぽな自分を認めることから、香奈は自堕落な母親から、野崎は子を堕ろした過去から。みんな現実から目を背けているわけです。鏡は見たくないんですよ、自分のいいところも悪いところも鏡は容赦なく映してしまいますからね。

 

さらに言うと、そもそも物語には、現実を映す鏡としての機能があります。『来る』には秀樹を筆頭に、現代人を反映した人物がたくさん出てきます。そしてその人物は、我々観客と鏡映しの存在でもある。観客は作品を観ながら、その中に自分の闇を見出してしまう。鏡に姿が映るように、映画を通して自分の闇を見てしまうわけです。

 

そういう意味でも、ある意味ホラーな作品だなぁと感じさせられます。

空っぽな幸福はマンションにあり!巧みな演出に脱帽!

今作で面白かったのが、幸せを強調する演出です。

結婚式での2人の出会いを紹介する場面であるとか、マンションで楽しそうにパーティする様子であるとか、偽りの幸せ像みたいなものがすごく過剰に描かれている印象を持ちました。

 

そして、どのシーンにも虚像としての幸せが表現されてるように思います。

 

例えば、結婚式のシーンでは、盛り上がる秀樹とは対照的に、秀樹の悪口を言う招待客の姿が映されています。二次会で秀樹がキーの合っていない愛唄を歌っているときも、「いつまで主役きどってんだよ」とぼやく友人がいたり。

 

見てくれとしての幸福と本音の部分が見え隠れするようになっている。あらゆる場面で出てくる、この二面性が物語の真実味を高めています。

 

さらに言うと、幸せを過剰に演出しているがために、その幸せが嘘っぽく見えるようにもなっています。とくに顕著だったのが、マンションの映し方です。

 

秀樹が購入したマンションに、友達を招待してパーティを開くシーンがあったと思います。皆さんはどう見えましたか?やたらとマンションが明るく映されているように見えませんでしたか?

 

よくマンションのCMで、過剰に日が差し込んでいる中庭で、楽しそうに遊ぶ子どもの姿が映されていることってありますよね。けれど、あれって、基本的には演出された幸福像ですよね。つまり、虚構の幸福がマンションのCMでは表現されているわけです。

 

そして、今作『来る』でも、実はこのシーンがあるんですよ。やたらと明るいマンションの中庭で楽しそうに遊ぶ子どもたちと、それを、秀樹と友人がベランダから眺めているシーンがあります。

 

あれは、秀樹の幸福が虚構のものだと示すための演出だったのではないかと思うのです。でなければ、あんなにマンションのCMとそっくりな構図で中庭で遊ぶ子どもを映す必要がないですからねぇ。

 

その辺りの演出もあって、秀樹の幸せなシーンは徹底的に「嘘っぽく」見えるわけです。巧みな演出ですね……。

 

さらに言えば、過剰に幸せを演出することによって、観客の心の中に「幸せアピールはもういいよ。いい加減にしろ」という心理が発生します。そして、そのあとに、秀樹が「あれ」に襲われるシーンがくると、観客としては「ざまあみろ」となるわけです。「ざまあみろ」心理を巧みに利用しているのです!

 

幸福の演出によって、観客にストレスを与え、そのストレスを「あれ」が解消してくれることで、観客に快感が訪れるようになっている。誰かが襲われているのを楽しむためには、前段階として、その誰かを憎んだり疎んだり妬んだりする必要があります。ホラー要素を楽しませる方法論として、こうした観客をあえてイライラさせる方法があるのかもしれませんね。

 

実はこんな心理操作もしているのかなぁと邪推してみた次第です(笑)

マンションがどんどん不気味に見えてくる、不思議な現象!

ごめんなさい……。もうちょっとだけ、マンションの話をさせてください。

この映画って、途中からマンションの見た目が明らかに変化しますよね。いや、フォルムが変化するというわけではなく、雰囲気が変化すると言えばいいでしょうか……。

 

最初はCMに出てくるようなマンションですけど、これが徐々に不気味になっていく印象があります。途中から気が付いたのですが、それまで普通に背景に溶け込んでいたマンションが、ちょっとずつ背景から浮いて見えるようになっていくんですよ。

 

マンションの中庭で秀樹がベンチに座るシーン。秀樹の顔を下からアップに撮っているのですが、秀樹の背後のマンションがやたらと浮いて見えるんです。それ以降、最後の除霊のシーンでも、マンションの外観が映されたときはきまって、背景からあえて少し切り離しているんです。

 

このことによって、マンションと周囲の景色に差異が生まれ、「このマンションは異質なものだ」という印象が強まっているように思いました。マンションの映し方ひとつでも、かなり工夫しているのだなぁ、と穿った見方をしてみました。

現代人の「渇き」は「生の実感」で埋めるべし!

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫)

 

映画『来る』はエンターテインメントでありながら、非常に鋭く時代性をとらえている作品でもあります。無数にテーマが張り巡らされているのですが、ここではその中でも、「生の実感」について取り上げようと思います。

 

「え? 生の実感?」と疑問をお持ちの方も多いでしょう。まぁ、これはかなり私の独断と偏見で抽出したテーマですからね。分かりづらいのはご愛嬌ということで……。

これを理解するにはまず「痛み」について触れておく必要があります。今作では、終盤になると「痛み」という単語がよく出てきましたよね。特に、クライマックスシーンで、野崎が琴子に「仕事の邪魔をしないでください」と短刀で腹を刺されるところは、痛みにかかわる象徴的なシーンでした。

 

短刀で刺された野崎は朦朧としながら、霊媒師の逢坂セツ子(柴田理恵)との会話を思い出します。

 

痛みがあるということは生きているということです」この言葉が野崎をもう一度奮い立たせます。

 

そして、死の世界へ知紗を返そうとする琴子に野崎は反抗する。刺されたわき腹を押さえながら、野崎は知紗にかけられた封印の縄を解き、知紗を救い出します。その後、最後のシーンで、野崎は「この痛みを感じる限り俺は生きている」みたいなことをモノローグで語る。

 

つまり、痛みに向き合うことで、野崎は生の実感を手に入れたのです。「俺はいま生きているんだ」という確かな感覚をつかんだのです。これはとても大切なことです。

 

今作『来る』に出てくる人物たちは、特に秀樹や香奈や野崎は、自分が生きていることに対する実感を持てずにいる点で共通しています。もっと言えば、「感情が希薄」という点でも共通しています。普通の人間なら抱くべき感情が湧かず、どこか渇いた心を持っている。心の中が渇き切っているのです。

 

例えば、秀樹は自分の娘がケガをしたというのに、ブログを更新するのに夢中で、親として心配する素振りを見せない。それに対して、香奈は「それが父親の態度なの?自分の娘がケガしたのに、何も思わないの?」と詰め寄る。秀樹は「一人生んだくらいで偉そうに」と最低なセリフを吐く。ここから分かる通り、秀樹は「感情が希薄」な人間なんです。

 

では、香奈はどうでしょう?実は香奈にも秀樹と同じようなシーンがあります。秀樹が「あれ」に襲われて死んだあとのシーンです。モノローグの中で、秀樹の親に「主人が死んで何も思わないのか!」と詰め寄られたが、何一つ悲しくなかったと語っています。むしろ、「主人が死んで嬉しかった」とも独白しています。秀樹のせいではありますが、香奈も同じように「感情が希薄」になってしまったのです。

 

そして、野崎も実は同じです。野崎は昔、女性に子どもを堕ろさせた経験がある。そのとき野崎がその女性に言われたのは、「子どもができても、子どもを堕ろしても、あなたは何も感じないの?ねぇ、嬉しい?」という言葉です。野崎もまた、あるべき感情が生まれなかった人間なのです。「感情が希薄」な人間だったのです。

 

秀樹も香奈も野崎も、「何も思わないの?」と詰め寄られ、何も思わなかった人間なのです。これが彼らの共通点であり問題点です。では感情が生まれず、渇いた心を持った人間は何を求めるのか?それが「生の実感」です。

 

自分の感情すらあいまいで、ふわふわした、宙ぶらりんな存在。そんな彼らがどのように「いま生きているんだ!」という実感を持つことができるのか?「生の実感」を得る、あるいは心の渇きを癒すための代償行為は、三者三葉です。

 

秀樹の場合は、ブログで承認欲求を満たすことによって、香奈の場合は、津田大吾(青木崇高)との情事によって、野崎の場合は人助けやなりふり構わず仕事をすることによって、「生の実感」を得ようとした。心の渇きを一生懸命に癒そうとしていた。

 

そう「渇き」なんです。そういえば、中島哲也監督は『渇き。』でも監督を務めておられました。

渇き。

渇き。

 

 すみません……少々強引でしたね(笑)許してくだされ。

とはいえ、「渇き」は今作『来る』でも大きな役割を果たしています。上記のように心の渇きを癒し、生の実感を得るために、登場人物は四苦八苦しています。「あれ」に呪われた人間はみな「喉が渇く~」と言って、「」を求めていましたよね。この演出は、心の渇きを間接的に表していると考えられます。心の渇きを喉の渇きに変換して表現しているわけです。

 

「でも、香奈も秀樹も水を飲んでないけど……」と思う方もいらっしゃるでしょう。確かに、水は飲んでいませんが、よく思い出してみてください。秀樹が殺されたシーンでは、廊下にたくさんのお皿と、その中に水が入れられていました。そして、香奈が死んだのはどこかと言えば、トイレ……これも水のある場所です。登場人物たちの心の渇きが、間接的にではありますが、こうした描写に表現されているように思います。

 

秀樹も香奈も「心の渇き」を癒す前に、「あれ」に襲われて死んでしまいます。しかし、同じように心が渇いていたはずの、野崎だけが生き残りました。なぜ、野崎は生き残れたのか?

 

野崎は3人の中で唯一、自分の過去、言い換えるなら自分の「心の痛み」に向き合って乗り越えた人物なんです。秀樹は自分が嘘つきだということを最後まで認めなかった。香奈は自堕落な母親との過去に最後まで向き合わなかった。だから、香奈を最後に襲った「あれ」の姿は、香奈の母親の姿だったのです。「あれ」は人の心の痛みを象徴化して登場するのです。

 

しかし、野崎だけは向き合ったのです。子どもを堕ろしたときの後悔(痛み)へ向き合い、心の痛みを引き受けて、知紗を助け出した。「知紗を同じように、死なせたくはない」、「それではまた同じことの繰り返しだ」。こうした想いが、短刀で刺されるという外的な「痛み」によって誘発され、野崎は過去を乗り越えたわけです。

方法序説 (岩波文庫)

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 このように、痛みは人間を苦しめるものですが、苦しんでいるということは、生きている証でもあります。「われ思うゆえにわれあり」ではなく、「われ痛むがゆえにわれあり」といったところでしょうか。痛みが野崎の心を潤し、野崎に「生の実感」を与えたのです。

 

こうして考えると、映画全体を通して、デカルト先生の方法的懐疑を実践しているように見えてきます。 

 

承認欲求は幻想→愛欲も幻想→けれど、痛みを感じている自分は疑えない。

 

こんな感じで、いろんな価値観を疑っていき、最後に疑いようのないものとして「痛み」を位置づけているような印象があります。

 

承認欲求や愛欲よりも深く自分自身の存在を明らかにしてくれるものが「痛み」。外的な痛みはもちろん、心の痛みも含めて、自分の痛みに向き合うことで、生の実感が得られる。この点が、映画『来る』の興味深いメッセージ性だと私は考えています。

 

現代人は「幸せなフリ」ばかりうまくなって、生きている実感を得る術を見失っているのかもしれません。実感のない、状態だけの幸福ほどむなしいものはありません。映画『来る』には、現代人が見失ってしまった「生の実感」をどのように獲得するのか、その方法が描かれているような気がします。

 

私の邪推かもしれませんけどね。。。けれど、「生の実感」は下手をしたら、幸福よりも重要なことなのかもしれません。そんなことを、今作から勝手に読み取ってみました。

毛虫ってなんなの?知ると3倍恐くなる!子どもの無秩序vs大人の秩序。

毛虫がいっぱい出てくるけど、それってなんなの?」と不思議に思ったそこのあなた!私も最初は単にケレンミとして入れているくらいにしか思っていませんでした。しかし、よくよく思い返してみると、毛虫にはいろいろと意味があったような気もするのです。

 

それは、毛虫と蝶の扱いの違いを見比べてみるとよくわかります。

 

子どもが虫を殺して遊んでるシーンが何回か出てきたと思います。子どもたちは何を殺してましたか?おそらく、そのときに殺してたのって「」ですよね。あるいは、アリの群がっているセミを、子どもたちが眺めているシーンもありました。

 

ですが、毛虫や芋虫はどうだったでしょうか?そうなんです。毛虫は殺されてないんですよ。手の中で潰されたり、翅を引きちぎられたのは蝶やセミなどの「成虫」だけで、毛虫や芋虫などの「幼虫」は殺されてないんです。

 

今作では、子どもは怪異に近い存在として描かれています。電話やスマホを介さずに、怪異の声が直接聞こえるのは子どもか、子どものように幼児退行してしまった老人だけ。つまり、この作品では、子どもと怪異は同族に近い関係なのです。

 

その怪異は毛虫という子ども的な存在を媒介にして、田原家に侵入していました。そして、怪異が殺すのは、大人だけです。だから、知紗は死んでいませんよね?子どもは、神隠しにあったとしても死ぬことはないんです。なぜなら、子どもは怪異の仲間だから。

 

そう考えると、子どもが毛虫を殺さない理由もわかるというものです。つまり、毛虫は「幼虫」であり、子どもでもあるため、仲間なのです。そして蝶やセミは「成虫」であり大人なので、子どもの敵なのです。

 

幼虫=子ども成虫=大人と考えると、子どもたちが成虫を殺し、幼虫を生かしていたことに合点がいきます。つまり、子ども(幼虫)たちは大人(成虫)だけを殺していたのです。これって、「あれ」の行う殺人と似ていまよね?

 

「あれ」は、幼虫という子どもを媒介にして、大人だけを殺すのです。子どもも怪異も命を奪うことを楽しむという残酷な点で共通しています。

 

こうした点から、「あれ」の行動を考えてみると、背筋が凍ります。というのも、「あれ」はおそらく、子どもが虫を殺して遊ぶのと同じように、大人を殺して遊んでいたのですから。

 

子どもの遊びと、「あれ」の遊びはシンクロしているんです。「あれ」は、蝶の翅を引きちぎるのと同じ感覚で、秀樹の下半身を引きちぎって遊んでいたわけです。うわぁぁ、、、いま、自分で書いてて怖くなりました。一応、深夜に書いてるんで、こえぇぇ。。

 

ここには、「子どもの無秩序と大人の秩序」の対立も読み取ることができます。大人の世界にはルールがありますが、子どもの世界にはそれがありません。だから、冒頭の法事のシーンでも、大人たちが神妙な面持ちで合掌していても、子どもたちは関係なく、寺の境内を走り回っています。

 

ここに、「子どもの無秩序vs大人の秩序」が描かれています。こうしたシーンは、映画の随所に見られました。たしかに、子どもって、ときどき何考えているか分からないですよね?

 

笑いのツボだとか、常識だとかが全く異なるので、ちょっと恐く見えることもしばしばあります。こうした子どもの捉えどころのない、無邪気さとホラーが結びついていたため、普通のホラーより何倍も恐い思いをしました。

 

ちなみに、真琴が病院から「あれ」に連れていかれるシーンがありますよね。でもこのシーン、不思議に思いませんでしたか?だって、「大人」は無条件にみんな殺されてるんですよ?どうして、真琴は神隠しにあうだけで、殺されなかったのでしょう……。

 

理由は簡単です。「あれ」が真琴を子どもであると認識していたからです。姉の琴子が、真琴のことを「あの子は子どもなのよ」と言ってましたよね?つまり、精神的に子どもであれば、殺しの対象にならないということが、このシーンから読み取れます。

 

まぁ、「あれ」は子どもの姿で登場しますしね。よほど、同族の子どもに対しては、仲間意識を持っているのかもしれませんね。詳しいことは何とも言えませんけど。なにせ、子どもの考えることですから……(笑)

子どもの残虐性……。オムライスのシーンが持つ恐ろしさ。

映画のラストシーン。知紗の夢の中が映し出されます。凄惨な大量虐殺が行われたのに、知紗は暢気に「オムライスの夢」を見ています。これが本当に謎ですよね。。。

 

先に言っときますけど、これは本当に私にもよく分かりませんでした。なので、これから書くのは、完全な憶測になりますので、ご了承くださいませ。

 

先ほどの段落でお話した、子どものの残虐性をベースに考えると、オムライスのラストは少し理解できるような気もします。子どもは大人のルールとは違うところで生きています。だから、平気で虫を殺して楽しめるわけです。そして、子どもの鏡映しである「あれ」は虫を殺して遊ぶように、大人を殺して遊んでいたわけです。

 

その理屈から考えると、もしかしたら、知紗にはあの大量虐殺のシーンが、オムライスの夢みたいに見えていたのかもしれません。だって、あの夢って、オムライスに過剰にケチャップがかかっていますよね?あれって、血のメタファーなんじゃないのかなぁ、と私は思うんです。知紗には、あの大惨事が愉快なものに見えていたんじゃないでしょうか。

 

その根拠としては、野崎が知紗を抱いてベランダから飛び降りた後、目を覚ました野崎の上に知紗はまたがって、すごく楽しそうに笑いますよね。楽しんでるんですよ、やっぱり。知紗の笑顔のあとに、画面が引いて血だらけの惨状が画面いっぱいに広がりますよね。この風景を最大限にデフォルメすると、オムライスの夢のケチャップだらけの光景に近づくような気がします。

 

いろんな見方があるとは思いますが、私としては、子どもの残虐性を軸に考えてみた次第です。

『来る』Q&A① 秀樹の親友(津田)と秀樹の後輩(太賀)はなぜ死んだのか?

先日、コメント欄にてエルモアさんから、2つほどご質問をいただきました。コメントいただきありがとうございます!回答が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。ちょっと、内容が長くなりそうでしたので、改めて「Q&A」コーナーを作ってみました。

 

さて、秀樹の親友(津田)と秀樹の部下(太賀)はなぜ「あれ」に殺されたのか?という質問に対して、私の見解を述べておこうと思います。実はこの質問に対する明確な回答はあまりないのですが、参考程度に書き記していきます。

 

まず、「あれ」が殺害する人間の特徴を整理しておきましょう。

  1. 心が渇いている
  2. 大人である

以上の2点が殺害された人間の特徴と考えられます。そして「渇いた心」に引き寄せられるのが「あれ」の特徴です。秀樹の親友である津田は、かなり心が渇いています。「俺はあいつ(秀樹)から奪うことで快楽を得ている」みたいな、おどろおどろしいことを津田は言っていたと思います。つまり、秀樹のものを奪うという代償行為によって、一時的にですが、津田は心の渇きを癒し「生の実感」を得ていたのだと考えられます。

 

そして、津田は自分のその渇いた心を知っています。にもかかわらず、津田は自分のその渇いた心に向き合うとしていません。自分に向き合わず、むしろ、過剰に秀樹のものを奪おうとしています。

 

「生の実感」を得るための代償行為を弱めるどころか強化してしまっていたのです。これは、秀樹や香奈にも同様に言えることです。秀樹はブログを書くという代償行為にどんどんはまっていく。香奈は津田と情事を重ねるという代償行為にどんどんはまっていく。みんな「生の実感」を得るために、あるいは「自分の弱さ」から逃げるために、代償行為ばかりするようになっていくのです。

 

自分の弱さに向き合わず、秀樹や香奈と同じように代償行為を続けていった結果、津田は彼らと同じ末路を辿ることになったのだと考えられます。

 

また、魔導符を使ったのも殺害される原因の1つになっていたような気もします。あまり説明がなかったので、いまひとつわかりませんが、魔導という邪悪な力を使うことによるなんらかの報いみたいなものがあるのかもしれませんね。

 

例えば、全然違う作品ですが、デスノートだと「死神の目を使うことで寿命が半分になる」みたいな設定があったと思います。それと似たような形で、津田は魔導に手を染めたその代償として「あれ」を引き寄せてしまい、死を迎えたのだと考えることも可能です。

 

では次に、秀樹の後輩(太賀)なぜ殺されたのか?について考えてみましょう。先に言っておきますが、これは私にもよくわかりませんねぇ……。「あれ」が殺害する特徴を備えてはいますが、はっきり「これだ!」と言える明確な理由がないんですよね。

 

ただ、そのなかでも、太賀の渇いた心については少し説明ができるかと思います。太賀が「あれ」に襲われてからしばらくして、太賀は入院することになります。秀樹は後輩を見舞うために病室に訪れます。しかし、いつも楽しそうに笑っている太賀が、このときばかりは、恨み言を漏らしまくります。

 

「先輩はいいっすよね、結婚もして、子供もできて、社内の馬鹿な女とやりまくって……」みたいなことを言っていたと思います。太賀は秀樹の後輩として、秀樹の幸せぶりを目の当たりにしてきた。秀樹の前ではひょうきんなキャラを演じながら、秀樹に対する嫉妬心を必死で隠してきた。

 

でも、本当は妬ましくてしょうがない。こうした心の渇きが、「あれ」を呼び込んだのかもしれません。

 

津田に関しても、香奈に関しても、襲われるのは秀樹の近くにいる人物です。秀樹を軸にして、主なターゲットが選定されていると考えてよいでしょう(後半部分は違いますけどね)。そう考えると、秀樹に近い人物で、かつ最初に心の渇きが顕著だったのが太賀だった。だから、最初に殺された。まぁ、こじつけに近い理屈ですけどね、これは……。

 

ただ、このシーンは表現上において、面白い点がありました。太賀が襲われたのは、秀樹の娘が生まれて数年経ったくらいのタイミングでしたよね。そして、太賀はほかの被害者とは少し異なる痛がり方をしていた印象があります。

 

病室で寝込んでいる太賀は、秀樹の目の前で時折、お腹をそらすようにして痛がっていたと思います。何かがお腹から出てくるのを暗示させるような痛がり方でした。つまり、これは「お産」のメタファーとして描いていた可能性があります。じゃあ、何が生まれてくるのかと言えば、それはもちろん「あれ」です。

 

「あれ」が殺人をおこなうようになったのって、秀樹の娘(知紗)が生まれた後でしたよね。琴子も知紗のことを、「あれを手懐けてしまった、おそろしい子だ」みたいに話していたと思います。つまり、育児放棄された知紗が寂しさを抱えるのと同じくして、「あれ」が生まれ出てくる。

 

上記のようなタイミングや状況を照らして考えてみると、太賀の苦しむシーンには、「これから怪物が生まれてくるぞ」という暗示が含まれていたのではないかなぁ、というような気がするのです。

『来る』Q&A② 新築祝いのパーティに出てきた思わせぶりな女は何者か?

さて、では2番目の質問に答えていきましょう。

 

新築祝いのパーティに出てきた空気を壊す女性は何なのか?という質問でしたが、これには、それなりに明確にお答えできるかと思います。

 

結論から言うと、あの女性はおそらく秀樹の愛人(or元愛人)です。おいおい……急にとんでもない話になってきたぞ。と、思われたかもしれませんね。さて、なぜ、愛人だと言えるのか?という話ですが、理由はいくつかあります。

 

まず、新築祝いパーティのとき、その女性はマンションの値段に関する言及をしていたと思います。私もよく覚えていないのですが、誰かが「このマンション高いんだろ?」みたいなセリフを言った後に、その女性が「あたしこのマンションの値段知ってる」みたいなことを、小悪魔な笑みを浮かべながら言っていましたよね。

 

私はこのセリフに違和感を持ちました。というのも、いくら同僚とはいえ、他人のマンションの値段を知っているものでしょうか?ある程度親密な関係でないと、こんな大切な話はしませんよね。

 

つまり、その女性と秀樹は、他には話さない情報を共有し合うほど親密な仲だったと考えられるわけです。思わせぶりな態度は、悪戯心の表れ。「みんな秀樹と香奈を祝福してるけど、実は私、秀樹と不倫してる(不倫してた)んです」という悪戯精神が垣間見えたシーンだったのです。

 

そして、もう一つ、パーティの後日、会社の踊り場で、その女性と秀樹がばったり会うシーンがありましたよね?変なシーンだと思いませんでしたか?

 

女性は秀樹に会うなり、「津田先生と付き合うことになりました」みたいな話をする。津田とは新築マンション祝いパーティのときに出会っており、そのときにその女性と津田は親密になった可能性があります。秀樹はそのことを聞いて、「え、なんで?」と動揺していました。

 

でも、不思議じゃないですか、このリアクション。自分の親友と付き合っていたのなら、「え、マジで! いつから付き合ってるの?」みたいに祝福するような反応をするのが普通です。しかし、秀樹は「なんで?」と聞いた。

 

ここで、津田という人間について思い出してほしいのです。津田は、「秀樹のものを横取りすることに快感を得る人物」でした。もし、秀樹とその女性が付き合っていることを知ったら津田はどうするでしょうか?

 

もうお分かりですよね。その女性を横取りしたくなるはずです。そして、それは一度や二度の話ではなかったのでしょう。だから秀樹は戸惑ったのです。「なんで、また津田なんだ?」と……。

 

秀樹はおそらく、何度も津田に女性を奪われてきたのでしょう。だからこその動揺だったと考えると、辻褄が合います。しかも、津田は最後のほうで死に際に「あいつ(秀樹)、俺が横取りしてることに気づいてたはずなのに、ヘラヘラしやがってよ」と言ってましたよね。その横取りに気づいたシーンの1つが、階段の踊り場でのシーンだったというわけです。

 

以上の2つの理由から、空気を読めない思わせぶりな女性は、秀樹の愛人だったと考えられます。

ぼぎわんが、来る 1 (BRIDGE COMICS)

ぼぎわんが、来る 1 (BRIDGE COMICS)

 

はい!ということで、今回はこのくらいにしておきまーす!

毎度のことですが、まだまだ語り足りないことがたくさんあります。

とはいえ、それを全部書いていたら卒論レベルになっちゃうんで、やめときます(笑)

 

映画『来る』は、現代人が失った「生の実感」について方法的懐疑で迫っていきながら、バトル漫画的な除霊シーンでエンターテインメントとしての面白さも追及している異色の社会派ホラーです。

 

単純にエンターテインメントを楽しみたい人はもちろん、社会派の切り込んだ話が大好きな人も楽しめます!まだ観てない人は、役者さんの演技なども見所なので、その点も含めて観てみてくださいね。きっと楽しんでいただけるでしょう!

 

では、次のレビューまで「あれ」に襲われないことを願いつつ、さようなら~~(^^)/