先に言っておきます、申し訳ございませんでした!
なんで、お前は開口一番から謝ってんだって話ですよね……。
いやぁ、今作『jam』で劇団EXILEという存在を私は初めて知りまして、「正直、EXILEって演技とかどうなの?」って半信半疑で観に行ったんですよ。いやぁ恐れ入った……演技力抜群とはまさにこのこと。劇団EXILE9人が勢ぞろいし、すべての配役や演技がピッタリはまっているという印象でした!
ほんと、劇団EXILE舐めててすみませんでした。反省です。。。
まぁ、とにもかくにも、予告で「因果応報エンターテインメントってなんだよ!面白そうじゃん!」と思い、去る12月1日公開初日に『jam』を観てきたわけです。
演技も脚本も非常に練られており、完成度が高かったです。衣装や途中の挿入歌など、物語にリアリティを持たせるためのディテールも凄まじかった……。因果応報というのが、全体的なテーマなのですが、他にも複数のテーマが複雑に絡みあっており、その辺りが巧な映画だと思います。
今回も、前半はネタバレなし、後半からネタバレありで感想を書きなぐっていきます。最近、豊作な邦画!『jam』も見逃せない1本だと思いますので、できる限り楽しく紹介したいと思います。
最後にテツオはどうなったのか?
本当に因果応報がテーマなのか?
とか、すでに観てきた方々の中には、いろいろな疑問が残っていることでしょう。
その辺りにも触れながら、お話を進めていきたいと思います!
なんかね、それぞれの人間関係が見事に絡まっていく面白さが『jam』にはあるんですよねぇ。みんなどこかで繋がっているのかもしれない……という安心と不安を呼び起こさせる良作です。ぜひ、ご覧あれ~~
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- 『jam』のあらすじ&主要登場人物を紹介
- SABU監督の圧倒的な脚本力!(※ここからはネタバレあり)
- 因果応報だけじゃない!善とは何か、悪とは何かも描いている!
- 愛情が屈折すると人はどうなってしまうのか?
『jam』のあらすじ&主要登場人物を紹介
『jam』は、『Mr.Long/ミスターローン』で第67回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に選出されたこともある、SABU監督が監督・脚本を務めている作品です。『jam』は、コメディ調でありながら、人間の暗部をチラチラ見せるという、観客の心を揺さぶる見事な構成の作品です。
3人の主人公の運命が絡み合う構成なので、『jam』というタイトルはピッタリという印象です。まぁ、パンにつけるjamの意味もあるとは思いますが、「ジャムセッション」みたいに、即興で音楽が作り上げられるみたいな意味合いも入っているのかなという印象もあります。
『jam』のあらすじを紹介
さて、それでは、そんな『jam』のあらすじを見ていきましょう。
熱いファンに支えられ、ステージでは華やかに輝いているものの、常に心の中に空虚感を抱いている場末のアイドル演歌歌手・ヒロシ。あるコンサート後に、ファンの雅子からの付きまといに遭ったヒロシは、雅子の暴挙により監禁されてしまう。そして、瀕死の重傷を負い意識不明となった恋人の回復を祈り続けるタケルは、「善いこと貯金」をすれば彼女の意識が戻るのではないかと信じ、日々善行に励んでいた。その一方で、刑期を終えたばかりのテツオは、自分を刑務所送りにしたヤクザに復讐するため、ヤクザの事務所へ単身殴り込みをかける。男たちのそれぞれの物語が、同じ街の同じ時間に交差し、彼らの人生の因果応報が巡っていく。
演歌歌手の横山田ヒロシ。彼女の意識を取り戻すために奔走する西野タケル。ヤクザに復讐を仕掛ける川崎テツオ。この3人が、それぞれの目的で動き出す。しかし、実はみんな、関係者だったというお話です。
『jam』の主要登場人物を紹介
次に、主要登場人物を見てみましょう。劇団EXILEの方々の演技が素晴らしかったので、その点にも触れながら紹介します。
今作のポイントは「二面性」!人物それぞれに二面性をきっちり設けることで、立体的な人間像と、複雑な人間関係の構築に成功しているのです。
横山田ヒロシ(青柳翔)
主人公のひとり、場末の演歌歌手、横山田ヒロシ。おばさん層から絶大な人気を獲得しており、コンサート会場にはいつもお客さんがびっしり。ステージへ上がるときは、『こんばんわ ありがとう』というファンへの感謝を込めた曲から歌い始める。ものすごくきめ細かなファンサービスが売りで、コンサート終わりの、「トークトゥーミー」という交流イベントでは、毎回ファンと会話する機会を設けている。いわゆる「神対応」で固定ファンを得てきたヒロシだが、この出口の見えない演歌歌手生活に少し窮屈さを覚えている。
そんなとき、ファンの一人、向井昌子(筒井真理子)がヒロシに睡眠薬入りのスープを飲ませて、ヒロシを拉致監禁してしまう。ナイフを突きつけて、「私のために歌を歌って」と無理難題を投げかける昌子。戸惑いながらも、ヒロシは昌子の曲を作ることになる。
ファンに誘拐されるという狂った展開が見所です。
そして、何より、演歌歌手としてのヒロシの姿が魅力的です。髪型や衣装はさることながら、立ち居振る舞いの至る所に演歌歌手らしさが滲み出ています。
しかも、歌が上手い!
すごくナチュラルにコブシをきかせて歌っていますし、演歌独特の言葉を1つずつしっかり発声する感じとか、見事に表現されています。本当にヒロシって演歌歌手がいるんじゃないかと、錯覚起こすレベルですよ(笑)
まぁ、ヒロシって名前も絶妙ですよね。実在する演歌歌手の名前とオーバーラップしますし、三文字の名前って、歌の合間に合の手を入れやすいですよね。4文字以上になると、ちょっとお客さんも合の手を入れづらくなっちゃう。その辺りの計算もしっかりされているんですよ。
さらに、すごいのは、ちゃーんと劇中で5曲も演歌を歌ってるんです!ただの演歌歌手という設定ではなく、しっかり曲作ってるんですよ。しかも、歌詞はSABU監督が書いてるという……劇中歌のレベルから監督がコントロールしており、ストーリーとの親和性も非常に高くなっています。
ちなみに、出てくる曲は、
- 『ヒロシの祭り・宝船』
- 『どっちもどっち』
- 『雨の馬喰横山』
- 『こんばんわ ありがとう』
- 『MASAKO』
以上の5曲です。どれも、普通にいい曲ですよ。
あと、注目して頂きたいのが、ヒロシの「人でなしなんだけど、真面目な性格」です。この映画に出てくる人はみんな「~なんだけど、~な性格」という具合に、二面性を持っています。
ヒロシの性格について言えば、ファンを篭絡して金をふんだくっている反面、CDを手売りしていたり、鬱陶しいファンの差し入れをちゃんと食べたり、誘拐されて曲作りを強要されているのに褒められると「ありがとうございます」と、きちんと感謝してしまったり……。
真面目なのか、人でなしなのか、よくわからない。けれど、人間ってそういうものだな、とも思わされます。どっちつかずの性格を誰しも持っているわけで、この二面性の作り込みによって、余計にヒロシがリアルな存在に見えてくるのです。
「~なのに~な性格」というのは、キャラを考えるときに大切な要素なのかもしれませんね。私も自分の作品を書くときに、試してみようと思います!
西野タケル(町田啓太)
意識不明の恋人を助けるために奔走する2人目の主人公、西野タケル。タケルはある日、彼女とのデート中に、強盗集団に遭遇してしまう。警察から逃げる強盗一味の一人が放った威嚇射撃が、彼女のお腹に被弾し、彼女は意識不明の重体に。
そんな折、彼女の意識が戻ることを祈るために、神社へお参りに行くタケル。そのとき、天から「毎日3つ善いことをしなさい。そうすれば、彼女の意識が戻るでしょう」というお告げが聞こえる。タケルはそのお告げを信じて、毎日困っている人を探しては、困っている人を助け始める。善行を積み重ねていけば、きっと彼女の意識は戻るはず。そう信じて、奔走するタケルだったが――。
このタケルという人物が、『jam』の中で最もまともな人間に見えます。まぁ、まともに見えるだけなんですけどね……。実は全然まともじゃないんですよ。タケルは困っている人を探して、車を運転しながら辺りをキョロキョロ見渡しています。
この時点で、なかなかに怪しい人物ですが、彼女のためなら仕方ありません。しかし、泣いている小学生の女の子を助けようと、車に乗せようとしたり、マンションのベランダから落ちたブラジャーをニコニコしながら「落としましたよー」と言って拾ったり……。
善行を心がけていることはわかるのですが、「いいことをしよう」が先行しすぎていて、周りが全く見えていません。
優しくてまともな男の子だけど、その背後には彼女を取り戻すためなら何でもするという狂気があるんです。「いいことをしてるんだけど、ちょっと狂ってる」それがタケルの二面性です。
それと、毎日彼女の病室に訪れて、彼女の手にハンドクリームを付けたり、唇にリップクリームを塗ったりしているのですが……。妙に粘着質な触り方をしているんですよ。彼女を見つめるタケルの目もちょっと、虚ろな感じで狂気に染まっている。
こういう動作から、彼女への「愛着」が「執着」へ変化していることがわかります。
いい人の背後にある狂気。実は多くの人に共通している性質なのかもしれません。
川崎テツオ(鈴木伸之)
強盗の罪で刑務所に入れられ刑期を終えて出てきた、3人目の主人公、川崎テツオ。テツオは、もともとヤクザの強盗一味として活動していたが、仲間に見捨てられ一人だけ警察に捕まってしまったという過去を持っている。出所してすぐ、テツオは自分を見捨てた仲間に恨みを晴らすべく、ヤクザの事務所をカナヅチ片手に襲撃する。まるで修羅のように、暴れまわるテツオ。
そして、テツオは老婆と出会う。認知症の老婆が、「お父さんを駅に迎えに行かなきゃ」と言い始める。そして、テツオはなぜかその老婆を車いすに乗せて、駅へ向かい始める。
テツオは『jam』の中で最も謎が多く、不思議な人物として描かれています。なにせ、最後まで一言も話さないのですから。一言も話さないんですよ?でも、暴力だけは凄まじい。迫力のあるアクションシーンは、まるでジョン・ウィックのキアヌ・リーヴスのよう。あるいは、龍が如くで、敵をなぎ倒していく桐生一馬のようでもある。
1人で多人数に立ち向かうという、まさしく孤軍奮闘する姿になぜか心が持っていかれます。
暴力でしか自分を語れない男、それがテツオです。しかし一方で、老婆に対してはものすごく優しい。老婆を抱きかかえて、車いすに乗せるシーンでは、きちんと老婆の膝に毛布を掛けて寒くないように気を配っている。徹底的に優しいんですよ。
つまり、テツオは「暴力的だけど、とことん優しい」という二面性があるんです。これが、テツオの魅力です。物言わぬ修羅が、優しさを持っているという感動があるんです。もしかしたら『jam』の中で、私が一番好きな人物かもしれません。
はい!
ということで、『jam』はこのように、人物の二面性が魅力的な映画となっています。
単なるエンターテインメントを超えて、人間の本質に迫る内容になりえたのは、この二面性の作り込みがあったからなのではないかと思っております。
興味がある方は、ぜひ劇場へ行ってみてください!
新しい形の群像劇をお楽しみいただけることでしょう!
SABU監督の圧倒的な脚本力!(※ここからはネタバレあり)
ここからは、ネタバレありでどんどん『jam』の優れた点を紹介していこうと思います!
最初に触れておきたいのが、SABU監督の見事なまでの脚本ですよ。
だって冒頭からすごいじゃないですか?
いきなり、人も車も爆走しているシーンからスタート。いったい何が起きているのか、わからないまま、暴走した車は急停車。そして、急停車した車のフロントガラスを突き破って、昌子がヒロシに向かって飛んでくる。
カオスすぎる展開に、頭がクラクラしましたよ。しかも、昌子の顔が貞子みたいになっていて、本当に怖かった。冒頭から疾走感の溢れる映画であること。最後まで、動き続ける映画であることが、一瞬にして伝わってくるような破壊力がありました。事実、『jam』はほとんど、アクションシーンだらけで、飽きる暇が全くない。なのに、きちんと人間ドラマになっている。
すごいなぁ……。
やはり「走る」という動作は観客を惹きつけるようですね。走っているというのは、それだけで何か異常なことが起きていることを表しているわけですし。『子連れ狼』で有名な小池一夫先生も、「冒頭は銀座の街を裸の女が走っている」くらいインパクトのあるシーンから書き始めるべきだと語っています。それだけ「疾走」は、効果的なんですね。
ちなみに、これは完全に余談ですが、この映画には『子連れ狼』の成分が少し入ってますよね。気づいた方もいるかもしれませんけど、テツオと老婆って、完全に『子連れ狼』と同じ構図ですよね?
子連れ狼では、子供が乳母車に乗っていましたが、『jam』では老婆が車いすに乗っているわけです。しかも、闘う拝一刀、闘うテツオ、これも同じなんですよ。拝一刀と大五郎、テツオと老婆、なんか似てる気がするのは気のせいでしょうか(笑)子連れ狼ならぬ、婆ちゃん連れ狼に見えて仕方ないのです。
話がわき道にそれてしまいましたね。失敬、失敬。
さて、話を『jam』に戻しましょう。
『jam』の構成はおそらく、サンドウィッチ回想法を用いていると思われます。その点を含めて、構成について少し詳しく見ていきましょう。
サンドウィッチ回想法+主役交代型
サンドウィッチ回想法とは、冒頭シーンから、過去のシーンを経由して、最後に冒頭シーンに行きつく構成のことを言います。つまり、「どうして冒頭のシーンになったの?」という疑問を解決するために、過去から冒頭に向かって話が進んでいく形式のことです。
冒頭→過去→冒頭
上記でわかる通り、「冒頭」が「過去」をサンドウィッチしていますよね?だから、サンドウィッチ回想法と呼ばれているのです。『jam』はまさしく、このサンドウィッチ回想法を使っていました。
冒頭の衝撃的な疾走シーンから、過去に戻り冒頭に至る理由を解明していきながら、最後に冒頭の昌子が飛んでくるシーンに戻るという構成になっています。
最初に「どうしてこうなった……」という大きな謎から始まるので、非常に引きの強い話になっていたと思います。やはり、謎は冒頭で示しておいて、観客の関心を引き寄せる必要があるのかもしれません。
それと、主役交代型も使っているなと思いました。これは私の造語なのですけど、要するに、主役が交代しながら話が進んでいく構成のこと。今作では、ヒロシ→テツオ→タケルの順番にシーンが入れ替わり、それぞれが別々の目的で行動していることがわかるようになっている。
そして、全員が全員と関係していることを、観客だけが知っているという形になっています。観客と「秘密の共有」を果たしているため、観客は事情を知らない登場人物たちの行動にハラハラドキドキするのです。
「サンドウィッチ回想法+主役交代型」を使うことで、引きを持たせながら、シーンごとのハラハラ感を演出することに成功しています。いやはや、見事な脚本と言わずにはいられませんね!
因果応報だけじゃない!善とは何か、悪とは何かも描いている!
今作の大きなテーマは「因果応報」です。悪いことをしたら、必ずその報いを受ける。このテーマは随所に生きています。だから、強盗一味のあの二人は最後、トラックに轢かれましたよね。今作では、悪い人にはちゃんと天罰が下っているのです。
しかしですよ、「善いこと」と「悪いこと」ってそんなに簡単に区別できるでしょうか。強盗一味みたいに、明らかに悪いだけの輩もいます。ですが、今作の3人の主人公は一口に「悪者」とか「善人」とか言いきれる存在でしょうか。違うはずです。
人物紹介のところでも話しましたが、『jam』の主人公たちはみんな二面性を持っています。「善さも悪さも両方持っている存在」になっているんです。特にこの両義性に関しては、テツオが顕著だと思います。
テツオは最後、ナイフに刺され、銃で撃たれて、血だらけになりながら、駅に到着します。そして、老婆が探していたお爺さんと再会します。老婆の願いをテツオは叶えたわけです。散々、暴れまくりながら、ものすごい親切だったわけです。まぁ、老婆は自分の祖母だったわけですからね、唯一の肉親を大切にしたい思いがあったのかもしれません。
実は、この矛盾した行動が因果応報を複雑にしています。だって、テツオは「善いこと」と「悪いこと」を同時にやっているわけですから、単純な天罰では終われない。だから、最後のシーンは祖母と祖父そして自分がそろって、家族がそろう、温かなシーンでありながら、暴れまくった代償として死が訪れるという罰を受けるシーンでもあるんです。
テツオは悪いことに対する因果応報と、善いことに対する因果応報の両方を受けたのです。
因果応報って悪い意味で使われることが多いですよね?悪いことをしたら、相応の報いがある。けれど、反対に善いことをしても、それ相応の報いがあるはずなんです。SABU監督は、善いこと、悪いことの両方の因果応報をきちんと描いているような気がします。
タケルに関しても似たようなことが言えますよね。タケルは、彼女の意識が戻るように、毎日善行に励んでいます。しかし、あるとき、困っている人を助けようとして、知らぬ間に犯罪の手助けをしてしまう。
これって、善いことなのか、悪いことなのか、判断が難しいですよね。善いこと(原因)が、悪いこと(結果)を生むこともしばしばあります。タケルの行動はまさに、こういった因果関係になっていると思います。
ヒロシも実は、善悪の狭間にいます。
最後のほうのシーン。昌子がヒロシを庇い、銃で撃たれて瀕死の状態になる。ヒロシは恐ろしくなり逃げるが、昌子の乗る車と偶然遭遇し、昌子が車のフロントガラスを突き破ってヒロシにダイブする。このシーンは、本当に面白かった。
ヒロシが恐くなって逃げてるシーンって、ちょっとカーブした路地を走ってるんですよ。そして、路地を抜けた先で、昌子と再会するわけです。これは円環構造を描いているのではないでしょうか。ヒロシと昌子の間にできた奇妙な縁。この因果からヒロシは逃れられないのだということが、表現されているように思います。
そして、本当に最後の最後。昌子は病院に運ばれ、ベッドに横たわる。その傍でヒロシは、昌子の持っていたペンライトをカチカチと付けたり消したりしている。このシーンどう見えましたか?
一見、昌子のことを心配して、ペンライトをいじっているようにも見えます。だって、自分を銃弾から守ってくれたのが昌子ですから、何か特別な感情が芽生えても不思議ではありません。
しかし、こういう見方もできる。傍で見守りながら、「早く死なないかな」と待っている。ペンライトをカチカチするのは、死ぬのを待ちきれない焦燥感からであって、心配しているわけではない。
実は、どっちにもとれるんですよ。このシーンは、昌子を想う「善いヒロシ」として見ることもできるし、昌子の死を願う「悪いヒロシ」として見ることもできる。どちらにもとれるようにすることで、映画を終わった後に、その後の彼らを想像してしまうような仕組みになっているのです。
「この映画を忘れさせない!」という作り手の意志を感じる演出ですよね。
SABU監督は、このように善悪が溶け合ったような演出が長けているように思います。単なる勧善懲悪にせず、善悪の二面性を、因果応報に落とし込んでいるという、非常に興味深い試みがされている作品なのだなとしみじみ思ってしまいました。
愛情が屈折すると人はどうなってしまうのか?
『jam』では、因果応報はもちろん、「愛」もテーマの1つになっていますよね。『jam』に出てくる人物はみんな「愛」が歪んでしまっている人たちです。
最も歪んでいたのが、ヒロシの熱狂的なファンの昌子です。
なにせ、好きすぎて拉致監禁したうえ、自分のために曲を作らせるわけですから。狂気の沙汰まさにこのこと。自宅でザクロを刻んでいるシーンも狂気性を表していて、恐ろしい演出でしたね。
しかも、ザクロって、中身が赤いし、ちょっとグロテスクなので、内臓を刻んでいるみたいな見た目でもある。さらに言うと、ザクロには「成熟」と「愚かさ」という意味があるらしいんです。そこから考えると、昌子がザクロ切っていたのには、意味があったのだなという気がしてきます。
つまり、昌子はすでにおばさんで、いい大人なわけです。「成熟」した大人なのです。なのに、自分の欲望に負けて歌手を拉致監禁してしまうような「愚かさ」を持っている。「成熟しているのに、愚かである」という二面性を昌子は持っていて、その二面性をザクロは表現していたのです。
そんな昌子の失敗は、「愛情」と「独占欲」の違いがわからなくなったことです。ヒロシが好きという感情が、いつの間にか「ヒロシは私だけのモノ」というエゴイスティックなものに変化していた。とはいえ、その背景には、愛情の枯渇という問題もあったのかもしれません。
その点では、テツオも共通しています。仲間に見捨てられ、愛情が枯渇している。暴力で報復するという行動の背景には、「俺に構ってくれ」という叫びが隠されているように思います。自分を見て欲しいから、暴力的になる。
最後には、テツオは仲間に鼻で笑われ、殴り合いすらしてくれなくなります。誰も構ってくれなくなるのです。愛情を失ったテツオが、車いすを押しながら、ふらふらと、車道を歩いているシーンは切なすぎて、観ていられませんでした。
因果応報、そして愛情、その両方を、人物の二面性をしっかり描くことで成立させているのが『jam』です。重層性のある作品でありながら、全体としては笑わせてくれますし、エンターテインメントとしての見ごたえもある。
関係者が車に乗り合わせたときに、車のタイヤをアップに映して、因果が回り始めたことを表現するなど、細かな演出も非常に興味深く観ることができました。
構成の優れた映画を観たい人、
愛情とは何か、もう一度考えてみたい人、
善とは何か、悪とは何か、見直してみたい人、
そんな皆さんなら、間違いなく楽しめる一作です!
まだ公開し始めたばかりですから、この両義性のある作品をぜひ劇場で観てみてくださいね!
はい、ということで、今回はここまで。
いやぁ、今年は本当に邦画が豊作ですねぇ~~
今週からは『来る。』も始まるし、まだまだ見逃せないぜ!
皆さんから「ぜひこの映画を観て欲しい!」とかありましたら、コメントください。
私も面白いコンテンツに出会いたいので、よろしくお願いします!
では、次回のレビューまで、さようなら~~
あ、『ハード・コア』も忘れずに観に行きましょうね!(笑)
↓幻冬舎より私の小説『自殺が存在しない国』が発売されました!ぜひご覧ください!