「春河、僕はもう、お前を諦めたりしない!」
このセリフは、直前の春河のセリフと重なっています。春河はレオに連れ去られる直前、携帯にメッセージを書き残していました。
「カズちゃんが僕にしてくれたこと、すっごくうれしかった。だからね、僕は諦めないよ。カズちゃんは戻ってくる。また笑ってくれるって信じてるんだ」
(引用:『さらざんまい』第6話より)
吾妻サラのコスプレがバレて、一稀は「もう終わった」と春河とのつながりを諦めていたけれど、春河は違ったんですね。春河は一稀のことを思い続けていた。春河のメッセージのなかには、交通事故に対する怒りなどなく、ただただ、純粋に一稀の笑顔がみたいという想いだけがあった。
一稀は春河の想いを知って、ようやく自分と春河の間にある「想いのつながり」に気づいたのでしょう。春河が投げた「僕は諦めないよ」というメッセージをしっかり受け取り、一稀はきちんと「お前を諦めたりしない!」と返答しているのですから。
一稀が暗闇のなかを走り、春河の言葉が流れているとき、私は泣いてしまいましたよ。皆さんはどうでしたか?
誰もが互いに抱えている「罪悪感」ですが、実は思い込みだったりすることも多いですよね。そして、その罪悪感のせいで、自責の念にかられ、孤立してしまうことも多い。一稀と春河は、私たちが抱えている罪悪感を取り払ってくれたような気がします。
現代人の悩みをどう解決すればいいのか、その点に真摯に向き合っている作り手の姿勢にも感動しました。
ちなみに、春河を救出するときにケッピを使ってパスを回していますが、このとき、さりげなく燕太の夢は叶えられていますよね。燕太は一稀と、一緒にサッカーするのが夢です。
春河を助け出すとき、ケッピをボール代わりにして、久慈→燕太→一稀の順にパスを回していました。サッカーではないですけど、パスを回せたのは、燕太にとってかなり嬉しいことだったのではないでしょうか。
今回観て気づいたのは、そういえば、久慈もサッカーできるんだなぁということ。第4話の久慈回でも、たしかに久慈の部屋にはワールドカップの貼り紙みたいなものが、そこかしこに貼られていました。久慈もサッカーしてたんですかね。カッパ3人組は、サッカーという面でもつながっていたのかもしれません。
さて、前置きはこのくらいにして、『さらざんまい』第6話の考察を書いていきます。
涙なしには観られない第6話の魅力に迫りたいと思います。
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- 『さらざんまい』第6話「つながりたいから、諦めない」のあらすじ
- 『さらざんまい』第6話の考察① 「罪悪感」が人を孤立させ、「愛」が人をつなげる
- 『さらざんまい』第6話の考察② 春河はどうして吾妻サラを好きになったのか?
- 『さらざんまい』第6話の考察③ アンチ自己犠牲の『さらざんまい』
- 『さらざんまい』第6話の感想・ネタバレ考察のまとめ
『さらざんまい』第6話「つながりたいから、諦めない」のあらすじ
サシェゾンビの退治に失敗した一稀、燕太、久慈の3人は、カッパの姿のまま街を歩き回っていた。街中のモニターには、「浅草匂い袋事件」の続報が流されていた。事件の犯人であるサシェゾンビを倒せなかったため、匂い袋が飛んでいく事件は解決していなかった。
河川敷を歩く一稀たちの前に、春河の姿。一稀はとっさに、春河から逃げる。ニャンタロウの餌をあげに来ていた春河。一稀に想いを馳せる春河に、近寄る新星玲央。いつの間にか一緒に来ていた父親は眠らされており、春河はレオと2人で会話を続ける。春河の事情を知ったレオは、春河を眠らせ誘拐。レオとマブは、春河から欲望を搾取し、段ボールのなかに詰め込む。
一足遅れて、一稀たちは春河が誘拐されたことを知る。カッパ3人は、春河を救出するために、ケッピの後についていく。そこで聞かされたのは、カッパ王国とカワウソ帝国の「欲望エネルギー」を巡る争いの歴史だった。そして、ケッピはカッパ王国の生き残りであり、希望の皿を生み出せる唯一の存在であることが明かされる。
カワウソのアジトに侵入したケッピとカッパ3人は、早々に春河の入っている段ボール箱を発見。大急ぎで春河のもとに向かう一稀たちだったが、手を伸ばそうとしたその瞬間、春河の段ボール箱は他の段ボール箱と一緒に奈落の底へ落ちていってしまう。
途方に暮れる一稀にケッピは1つの提案をする。それは、一稀の尻子玉を春河に移植することで、春河を生き返らせられるというものだった。しかし、それには条件があった。一稀の尻子玉を抜くと、一稀の存在はこの世の円の外側に飛ばされ、一稀は最初からいなかったことになってしまう。春河の事故がなかったことにできると考えた一稀は、奈落の底へ落ちていこうとするがが、一部始終を見ていた久慈と燕太によって、一稀の試みは阻止される。
そのとき、春河の入っていた段ボール箱が奈落の底から跳ね返されて戻ってくる。そして、今度は巨大なシュレッダーのあるエリアに春河が運ばれてしまう。このままだと、春河はシュレッダーで粉々されてしまう。カッパ3人とケッピは力を合わせて、春河を救出する。
その後、一稀たちは、欲望フィールドでサシェゾンビを打倒し、尻子玉の消化に成功。
そのころ、レオは不敵な笑みを浮かべていた。というのも、ずっと探し求めていた希望の皿を生み出せる存在、ケッピの居所が判明したからである――。
『さらざんまい』第6話の考察① 「罪悪感」が人を孤立させ、「愛」が人をつなげる
第6話はタイトルがいつもと違っていましたね。『さらざんまい』の第1話~第6話のタイトルを並べてみると、その違いがはっきり分かると思います。
- 第1話「つながりたいけど、偽りたい」
- 第2話「つながりたいけど、奪いたい」
- 第3話「つながりたいけど、報われない」
- 第4話「つながりたいけど、そばにいない」
- 第5話「つながりたいけど、許されない」
- 第6話「つながりたいから、諦めない」
第1話~第5話までは、「~けど~」という「逆接」を使ったタイトルになっています。一方、第6話は「~から~」という「順接」を使ったタイトルになっています。逆接から順接へタイトルが変化しているわけです。これは、登場人物の変化とシンクロしています。
第1話のタイトルから分かる通り、一稀は最初「つながりたい」と「偽りたい」という2つの矛盾した感情を抱えていました。事実として、吾妻サラに変装し、偽りの姿のまま春河とつながろうとしていましたよね。
では、なぜ矛盾した感情を持ってしまったのでしょうか?
ここで重要になるのが、第5話で判明した家族に対する「疎外感」と「罪悪感」です。
「僕だけ血がつながっていない」という疎外感。「僕のせいで春河は歩けなくなってしまった」という罪悪感。この2つの感情と「春河とのつながりを守りたい」という願望が同居しているため、「つながりたいけど、偽りたい」という矛盾した心理状態に陥ってしまったのです。
一稀は「全部、僕のせいだ」と考えるほど春河に対する罪悪感で身動きが取れなくなっています。しかし、第6話では、春河も同じように、一稀に対して罪悪感を持っていたことが明らかになります。
「最後に誰にも言えない僕の秘密を聞いてくれる?僕ね、とっても悪いことをしたんだ。大好きなお兄ちゃんの大好きな人を傷つけたの」
(引用:『さらざんまい』第6話より)
一稀は吾妻サラのフリをするという「秘密」を持ち、同時に春河に対して「罪悪感」を抱いていました。けれども、春河も一稀の母親に会っていたことを「秘密」にし、一稀の母親に「悪いこと」をしてしまったと思っています。一稀と春河は互いに「秘密」と「罪悪感」を持っていたんですね。
「あれからカズちゃんは笑わなくなって、ミサンガも捨てちゃった。全部僕のせいだって知ってたけど、カズちゃんと一緒にいたくて笑ってほしくて……」
(引用:『さらざんまい』第6話より)
一稀が笑わなくなったのも、ミサンガを捨てちゃったのも、全部自分のせいだと、春河は強い罪悪感に苛まれていました。すべてを自分のせいにしてしまうところも、一稀と一緒だったんですね。
しかし、春河は罪悪感に押しつぶされていません。この点が一稀とは大きく異なります。
「カズちゃんが僕にしてくれたこと、すっごくうれしかった。だからね、僕は諦めないよ。カズちゃんは戻ってくる。また笑ってくれるって信じてるんだ」
(引用:『さらざんまい』第6話より)
「終わりだ」と嘆いていた一稀とは違い、春河は一稀とのつながりを諦めていませんでした。春河は一稀に対して、それだけ強い「愛」を持っていたのでしょう。なにしろ「判定、愛、返却」と言われてしまうくらいですからね。
春河の愛は罪悪感を上回ったのです。そして春河は「血のつながり」よりも「想いのつながり」のほうが大切だということを教えてくれています。
「カズちゃんの笑顔が見たいって、そう願ってるのは僕だけじゃない。カズちゃんはまあるいえんの真ん中にいるんだよ」
(引用:『さらざんまい』第6話より)
春河はもちろん、それ以外にもたくさんの人が一稀のことを想ってくれている。だから、一稀は1人じゃないし、つながっていないわけでもない。むしろ、つながりの真ん中にいるんだ。春河はつながりを遮断していた一稀に「お兄ちゃんはつながりのなかにいるよ」と教えてくれているのです。
そういえば、第1話の冒頭、一稀は「ア」の中心に立っていましたよね。あれは、一稀が「愛」の中心にいることを表していたんですね。しかも、後ろから「カズちゃーん!」という春河の呼び声があり、振り向いたら桜の花びらが舞っていましたよね。
第5話で分かりますが、「桜」は2人の思い出を象徴する花です。つまり、「ア」の看板が落ちてくる描写は、春河から一稀へのメッセージだったと考えることができます。第1話の時点で、春河は一稀に必死に訴えていたのかもしれません。「カズちゃんは1人じゃないよ」と――。
罪悪感を抱えながら「それでも、つながりを諦めない」春河の真っ直ぐな想いを受け取り、一稀は「つながりたいから、諦めない」という気持ちを持つことができました。「~けど~」の逆接と違って、こちらの場合は前後関係に矛盾がありません。「一稀の笑顔を願っている人がいる」という事実が、一稀の捻じれていた気持ちを解消してくれたのです。
罪悪感は、現代人が抱えている問題でもありますよね。自責の念に支配されると「ぜんぶ自分のせいだ」と頭を抱え、「そんなことないよ」という周りの声に耳を貸さなくなります。罪悪感が人間関係を遮断してしまうこともあるのです。一稀と春河の関係はまさにそういうものでした。罪悪感が2人の間に壁を作っていたのです。
敏感で真面目な人ほど自責の念に囚われてしまいがちです。近年のうつ病患者の数や自殺件数の増加には、こうした自分のことを責めすぎてしまう気質が少なからず関係しているでしょう。
罪悪感は孤立を生み、孤立はうつを生む。もちろん、好き好んで1人になっているのであれば、それはよいのですが、罪悪感のせいで孤立している場合は、もう少し自分を許してあげることが大切なのかもしれませんね。
自分が考えているほど、周りの人はあなたを責めているわけではないと、春河は教えてくれているように思います。『さらざんまい』には、罪悪感からの解放というテーマが潜んでいるのかもしれませんね。
『さらざんまい』第6話の考察② 春河はどうして吾妻サラを好きになったのか?
アバンのときにいつも出てくる「ア」のマークが、今回は半分欠けていました。これは春河と一稀がつながれていない状態を表していると考えられます。冒頭ではまだ、まあるい円でつながることができていないわけですね。
テレビに映る吾妻サラの姿を悲しそうに見つめるシーンは心が痛みました。実はこのシーンでさりげなく、春河が吾妻サラを好きになった理由が明かされています。気づかれた人も多いかもしれませんね。それはお父さんとお母さんの会話のなかで明らかにされています。
一稀・春河の父「言われてみれば、少し似ているかもな」
一稀・春河の母「だからだったのかもしれないわね」
(引用:『さらざんまい』第6話より)
これは、吾妻サラの番組を観ているときのセリフです。ここで父親が言う「少し似ているかもな」は、吾妻サラと一稀を指しているものと考えられます。このセリフと、後に出てくる「だからだったのかもしれないわね」という母親のセリフを合せてみると、春河が吾妻サラを好きになった理由が分かります。
「吾妻サラと一稀が似ていたから、春河は吾妻サラを好きになったのかもしれないわね」
こんな感じですね。春河はいつも「サラちゃんだーいすき」と言いながら、サラの背後に一稀の姿を見ていたのかもしれません。「サラちゃんだーいすき」という言葉の本当の意味は「カズちゃんだーいすき」だったと考えることができます。
『さらざんまい』第6話の考察③ アンチ自己犠牲の『さらざんまい』
『さらざんまい』第6話は、いろいろな作品のオマージュが満載でしたね。おそらく拾いきれるのは、一部の博識なアニメファンくらいでしょう。私はほとんど拾えませんでした。とはいえ、カッパ3人が階段を駆け上がるシーンは、『映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』で、野原一家が東京タワーを駆け上がるシーンのオマージュかなというところは分かりました。
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それと、作品のテーマにかかわる部分として重要だったのが『ターミネーター2』のオマージュ。一稀がケッピの提案に乗り、クレーンの鎖に足をかけて、スカイツリーの地下に降りていくシーンですが、皆さんご存知『ターミネーター2』のラストシーンと似ていますよね。シュワちゃんが、徐々に炎のなかに消えていく場面と、意図的に被せています。
ですが、『さらざんまい』が『ターミネーター2』と違うのは、最終的に落ちるところまでいかない点です。一稀は久慈に助けられて、奈落の底に落ちずに済みました。
ここに表現されているのは、自己犠牲へのアンチテーゼだと思われます。一稀は自分を犠牲にすることで、春河が助かるならそれでいいと考えていました。しかし、その考えは久慈や燕太に否定されるわけです。
「胸クソ悪いこと言ってる暇があったら、ほかの方法を考えろ!」
(引用:『さらざんまい』第6話より)
一稀はほかの方法を考えずに「自己犠牲」で解決しようとしていました。『ターミネーター2』のラストもシュワちゃんが炎に消える自己犠牲で締め括られていました。あれはあれでカッコいいのですが、『さらざんまい』では、あまり歓迎されていないようです。
考えてみれば、「自己犠牲」も先ほどの「罪悪感」と同じで、関係性を断つものですよね。罪悪感に苛まれると、人の話を聞かなくなり、自分の殻に閉じこもってしまいます。自己犠牲も同様に、自分だけでものを解決しようとしており、その点では人とのつながりを遮断しています。
あのシーンの一稀は、久慈や燕太の言葉を無視していました。自己犠牲のとき、人は人の意見を聞かなくなる。これは「つながり」を断つことでもあります。オマージュを入れて笑いを誘いつつも、アンチ自己犠牲の精神をさりげなく入れ込んでいるわけですね。お見事です。
『さらざんまい』第6話の感想・ネタバレ考察のまとめ
第6話は考察を深めれば深めるほど、春河の心情が浮き彫りになっていき、どんどん切なくなっていきました。
よく作品分析をしていると、「それで純粋に楽しめるの?」と言われることもありますが、分析するからこそ、より深く感動できることも多いです。さりげなく表れているセリフや仕草から、人物の心情を深掘りしてみると、その人物の葛藤やパーソナリティが分かってきて、むしろ感情移入の度合いが強くなります。なので、皆さんもぜひ映画やアニメを観終わった後は、キャラの心情について、少し深掘りしてみてください。その先には、より深い感動が待っているはずです。
それでは、最後に第6話で気づいたポイントをまとめておきましょう。
- 一稀、燕太、久慈の3人はサッカーでつながっている。
- タイトルが「~けど~」の逆接から、「~から~」の順接に変わっている。
- 一稀と同じように、春河も「罪悪感」を抱えていた。
- 春河の「僕は諦めないよ」に一稀は「お前を諦めたりしない」と返答している。
- 「罪悪感」は、人を孤立させる。
- 春河が吾妻サラを好きになったのは、サラが一稀に似ていたから。
- 「自己犠牲」は人とのつながりを断つので、『さらざんまい』では否定的に扱われている。
それにしても、春河はどうして一稀の母親のサシェを持ち続けていたのでしょうか?拾ったのなら返してしまえばいいでしょう。
これは、私の解釈なのですが、春河はサシェを拾ったとき、「カズちゃんのにおいだ」と言っていましたよね。それをずっと持ち続けていることを考えると、つまり「僕もカズちゃんと同じにおいになりたい」という気持ちが込められているのかなと思ったりします。こう考えると、春河って本当に一稀が好きなんだなぁと、健気さにクラっとしてきますね。健気で可愛い春かっぱですねぇ。
次回の7話はレオとマブの話になりそうなので、まだ開かされていない2人の過去に注目してみようと思います。
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『さらざんまい』各回の考察記事は、以下からご覧いただけます。考察がどのように変化しているのか注目して読んでみてくださいね。